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ウォルト・ディズニー縁の地チャーターサービス

ウォルト・ディズニーの軌跡を辿るツアー

ある日、友人から日本のとある有名人SNさんのお母さんKNさんがロサンゼルスに来るので、ディズニーのゆかりの地を案内してほしいと言われ、自分でインターネットなどで色々と調べて、即興でKNさんをディズニーのゆかりの地にご案内した。SNさんがディズニー映画のメインキャラクターの日本語での声優をやることになり、KNさんがディズニーリゾートのクラブ23に招待され、ウォルト・ディズニーさんに感謝して、お墓参りをするついでにウォルトのゆかりの地を色々とご覧になりたかったようで、私にそのような依頼が来たのであった。KNさんにはとてもツアーを楽しんでいただき、私もとても嬉しかった。それがきっかけで、ウォルト・ディズニーの軌跡を巡るツアーを企画しました。

2023年の昨年はウォルト・ディズニーがカンザスから1人汽車に乗って、ロバートおじさんの住むハリウッドにやってきて、兄のロイと一緒にディズニー・ブラザーズという今のウォルト・ディズニーカンパニーの前身となる会社を起業して100周年という記念すべき年で、各種ディズニーランドでも、ディズニー100周年のイベントをやっておりましたね。

ディズニーファンの方なら、ディズニーランドはもちろんの事、そのディズニーランドが出来るきっかけとなったウォルト・ディズニーが色々な挫折や困難を乗り越えて今や世界のディズニーにしたウォルト・ディズニーの所縁の地を回って、ウォルト・ディズニーの軌跡を巡ってみてはいかがでしょうか?

ドリームズ・カム・ツアーズはそんなディズニーファンの方に喜んで頂けるような、ウォルト・ディズニーの軌跡を巡るツアーにご案内させて頂きます。

昨年はディズニーのYoutuberで有名なあいにゃんさんにも参加して頂き、ツアーを楽しんで頂きました。

https://youtu.be/oNpQhPvsDTY?si=DeVPzURUYlVieFVF

ツアー催行日

弊社のディズニー専門ガイドは私1人のため、私のスケジュールが空いている日はいつでも催行可能です。ただ、ウォルト・ディズニーのキャロルウッド・バーンを見学したい場合は、毎月第3日曜日にツアーを組まれる事をおすすめ致します。

ツアー料金

弊社サイト上で、行かれたいウォルト・ディズニーの所縁の地をお選び頂きましたら、大体の所要時間をお出し致します。1時間お車一台、お一人様から最大6名様までご乗車出来て、1時間70ドル✖️かかったお時間(ミニマム5時間からとさせて頂きます。)➕チップ15%になります。基本的にロサンゼルスのダウンタウンからの出発になりますが、他の地域からのお迎えや終了も送迎料金がかかりますが、可能です。

キャンセル規定

ツアー催行当日から数えて2週間前まではキャンセル料金はかかりませんが、2週間を過ぎますとキャンセル料金が100%かかりますので、予めご了承下さい。


元ロバートおじさんの家

#ロバートおじさんの家 #ウォルト・ディズニーゆかりの地ツアー

時は1923年の夏、カンザスで夢破れたウォルト・ディズニーは22歳の時、数ドルをポケットに、当時ハリウッドのロスフェリス地区にいたロバートおじさんを頼って、カリフォルニアに移住しました。ウォルトは週5ドルでこの家の一室を借りました。すでに兄のロイは結核の再発により、ウエストロサンゼルスのソーテル地区にある退役軍人病院に入院しており、病床のロイを訪ねたウォルトにロイは大好きなアニメーションの世界にとどまるよう説得しました。そして、ウォルトはロバートおじさんの家に戻ると、週1ドルのレント料でこの家の裏庭のガレージを借り、昔の古いサイレント映画用のカメラを購入し、数日かけて簡単なアニメーションを製作しました。


ロバートおじさんの家の裏にあったガレージ

1923年、このガレージはロバート・ディズニーのハリウッドの家の裏庭にありました。この年の7月に、彼の甥のウォルトが仕事を探しにハリウッドに来ました。そして、ロバートおじさんの部屋の一室に週5ドルで住まわせてもらいました。

ウォルトはその時、若干21歳。カンザスのアニメ会社で失敗した時でした。そして、ウォルトはアニメ映画の監督になる事を夢見て、ハリウッドに来たのでした。しかし、当時のアニメ映画はすべてニューヨークで製作されていました。

2~3週間のハリウッド滞在中、ウォルトはまだ新しい映画会社での仕事の無さにモチベーションを失いかけていました。そして、その時ウォルトは兄のロイを訪ねました。ロイは、第一次世界大戦の兵士で、UCLA近くの退役軍人病院に結核の再発で入院していました。兄のロイは弟のウォルトに大好きなアニメーションの世界にとどまるよう説得しました。

ウォルトはロバートおじさんの家に戻ると、週1ドルで裏庭のガレージを借りる事にしました。ウォルトは、古い昔のサイレント映画用のカメラを購入しました。そして、数日かけて簡単なアニメーションを製作しました。ウォルトはその作品を興行師アレキサンダー・パンデージスのところに持っていきましたが、受け入れてもらえませんでした。

幸運にも、カンザスで製作したアニメーションが東海岸の業界の人の目にとまり、1923年10月『アリスコメディー』は映画配給会社から契約をもらいました。

ウォルトとロイは、この契約を機に、ディズニー・ブラザーズ・フィルム・スタジオを始めました。彼らは、ロバートおじさんの家から数ブロックのところにあるオフィスを月10ドルでレントし、次の2~3年間に『アリスコメディーシリーズ』や『しあわせウサギのオズワルド』など2本の作品のシリーズを製作しました。そして、1928年、ウォルトは最初のミッキーマウスをデビューさせました。


ディズニー兄弟の最初のアニメーションスタジオがあった場所

ディズニー・ブラザーズ

1923年10月、ウォルトとロイは月10ドルのレント料で当時Holly-Vermontという不動産会社だった建物のオフィスの後ろを借りて、彼らの初めてのアニメーションスタジオを立ち上げました。社名はディズニー・ブラザーズ・スタジオ。ここはロバートおじさんの家からも数ブロックしか離れておらず、徒歩で通える圏内でした。その後、ニューヨークのディストリビューターから『アリスコメディー』というアニメーションと実写を混ぜたショートフィルムの契約のオファーを得ました。

1924年の1月には、ハリウッド大通りとロドニードライブの角に空き地を借り、そこで『アリスコメディー』の撮影をしました。


ウォルトとロイが下宿した家

兄のロイとウォルトがロバートおじさんの家を出て、真向かいにあるこのチャールズ&ネッティー・シュナイダー夫婦(当時住んでいた夫婦)の家の一部屋を借りて、暮らしていた。


ウォルトとリリアンの最初のアパート

#ウォルト・ディズニーゆかりの地ツアー #ウォルトとリリアンの最初のアパート

1925年にウォルトは彼のアニメーションスタジオで働いていたリリアンと知り合い、結婚。二人で最初に借りたアパート。1925年から1927年までの3年間の新婚生活をここで送った。


ハイペリオン・スタジオ

1925年7月6日、『アリスコメディー』の成功により、ディズニー兄弟は400ドルの頭金で、ロスフェリスにあるハイペリオン通り沿いの土地を購入し、ここにアニメーションスタジオを移設した。そこで、ディズニー・ブラザーズという社名から、ウォルト・ディズニー・スタジオに社名変更した。


白雪姫コテージ(七人の小人コテージ)


ウォルトとリリアンが最初に住んだ家

1927年、ウォルトは$7,000でこの英国チューダー調の組み立て式プレハブ住宅を購入し送ってもらい、大工を雇ってここに組み立てさせた。兄のロイもその隣に同じような家を建てている。1928年ハイペリオン・スタジオで労働者のデモがあったとき、この家のガレージでミッキーマウス(プレイン・クレイジー)のセル画の色をウォルト、リリアン、ロイの奥さんエドナが仕上げた。ウォルトとリリアンは1927年から1933年までこの家に暮らした。


ウォルトのリリアンの2つ目の家(ウォーキングウェイの家)

『白雪姫』などの大成功により、1932年の春から夏の約2か月ちょっとかけて、ウォルトとリリアンは$50,000でこの家を建てた。地中海、チューダー、フレンチノルマンディー調を融合させた建築。間取りは2階建て、4寝室、5バスルーム、6,388スクエアーフィート、593平米、約180坪だ。家の敷地面積は5エーカー、20,234平米、66,890坪だ。通称「ヘンゼルとグレーテルの家」と言われた。家の中には小映画館もあり、ウォルトは毎日ここで子供たちと、『白雪姫』、『ファンタジア』、『バンビ』、『シンデレラ』、『風と共に去りぬ』、『市民ケーン』などの映画を鑑賞したようだ。ハイペリオン・スタジオもこの家から見渡せて、1933年から1950年までこの家に暮らした。2011年8月日本円で約3億7千万円で売却された。


ウォルトが晩年に住んだ家

 


ウォルトが亡くなった病院


ウォルト・ディズニーのお墓

1966年12月15日肺がんのため、セント・ジョセフ病院で65歳の若さでこの世を去ったウォルト・ディズニーのお墓。ウォルトが亡くなって2日後、彼のご遺体は火葬され、フォーレストローン・メモリアルパークに葬られた。


ロイ・ディズニーのお墓

ウォルトの8歳年上の兄ロイ・ディズニーのお墓。ロイは主にウォルト・ディズニー社の経営面で、会社を支えていた。ロイの隣には、奥さんのエドナさんのお墓もある。


ウォルト・ディズニー・キャロルウッド・バーン

1950年ウォルトは、ホーンビーヒルズの家の敷地にキャロルウッド・パシフィック鉄道を作りました。そして、その鉄道を動かしたり、モニタリングするための
かつて住んでいたミズーリ州のマルセリーヌにあったような納屋を作りました。その納屋がCarolwood Barnです。ウォルトが亡くなった後、ホーンビーヒルズの家は売られ、この納屋も撤去されるところでしたが、ウォルトの長女、ダイアンはこの納屋は父にとってとても重要な場所だったと悟り、キャロルウッド・ソサイエティの創始者マイケル&シャロン・ブローギー夫妻に連絡し、この納屋を無事にグリフィス公園に移して、保護することに成功しました。ウォルトはこの納屋で鉄道を作ったり、新しいプロジェクトやアイデアを考えたりして、彼の人生の多くの時間を費やしました。それゆえ、この納屋はあのイマジニアリングの生まれた場所だと言われます。納屋の中にはたくさんのウォルトのメモラビリアが飾られており、毎月第1と第3日曜日の午前11時から午後3時まで無料で一般公開されています。


LA Live Steamer Railroad Museum


グリフィス公園のメリーゴーランド

グリフィス公園のメリーゴーランド

ウォルトはよく土曜日に、娘のダイアンとシャロンを連れて、グリフィス公園のメリーゴーランドを訪れたそうだ。そして、娘がメリーゴーランドに乗って無邪気に楽しんでいる時、ひとりベンチに座り、自分も娘たちと一緒に楽しめるそんな夢の遊園地があったら、どんなに楽しいだろうかと思っていたそうだ。そして、その夢の遊園地をなんと現実のものにしてしまったのだ。そう考えると、ディズニーランドの原点は、このメリーゴーランドやキャロルウッド鉄道にあると言っても過言ではあるまい。2024年7月現在、メリーゴーランドのオーナーの方が3年前に亡くなり、彼の遺言書を元に次の後見人を模索中で、後3年は結論が出るのにかかりそうだという事で、今現在は見学が難しい状況です。


グリフィス公園のゴルフ場

1931年に過労で倒れたウォルトは健康のためにゴルフを始めた。いつも朝5時半には起きて、グリフィス公園にあるゴルフ場に通っていたが、OBばかり出して、自分には合わないスポーツだとすぐにあきらめた。


ウォルト・ディズニー・スタジオ

カリフォルニア州バーバンクに本拠地を置くウォルト・ディズニー・スタジオ。社屋には、ディズニーを支えた七人の小人たちが。残念ながら、一般の入場は出来ませんが、外から七人の小人たちの写真を撮る事は可能です。オリエンタル・ランドに務めている方やディズニーランドのキャストの方は交渉次第では、中のアーカイブを見学させてもらえる可能性がございますので、弊社までお問い合わせ下さい。出来る限り、ディズニー側に交渉してみます。


ウォルトディズニーアニメーションスタジオ

ウォルトディズニーアニメーションスタジオ

ディズニー・イマジニアリング


ウォルト・ディズニー・アニメーション・リサーチ・ライブラリー

住所も明かされていない極秘施設。ディズニー・アニメーション作品の6500万点以上のアートが保管されている場所。Vaultという部屋には、『白雪姫』、『ピノキオ』、『くまのプーさん』など27作品分の下書き、スケッチ、背景までたくさんの資料を保管している。保管されている作品のほとんどが紙の作品なので、室内は一定の温度、50%の湿度を保っている。『白雪姫』や『美女と野獣』などの原画がある。


チャイニーズ・シアター

チャイニーズ・シアター

シリー・シンフォニーの花と木のカラーでのプレミアを上映し、センセーションを巻き起こした。1964年には『メアリー・ポピンズ』のワールドプレミアムが行われ、主演のジュリー・アンドリュース、ディック・ヴァン・ダイクがレッドカーペットを歩いている。


Carthay Circle Theater

1937年12月21日、『白雪姫』のプレミアが行われた場所。


ドナルド・ダックの足形&サイン

ドナルド・ダックの足形&サイン

1984年5月21日、ドナルドの50歳の誕生日を記念して、ハリウッドのチャイニーズシアターの前庭にドナルドとドナルドの声役のクラーレンス・ダッキー・ナッシュが直筆のサイン、日付、足形を入れた。数々の映画、テレビ番組、漫画などに出ているドナルドの人気と多産性を認められて、選ばれた。ディジーも式にお目見えしている。他にも、ドナルドはウォーク・オブ・フェイムの星形にも選ばれている。


エル・キャピタン・シアター

ディズニーの映画専門の映画館。ディズニーの映画しか上映しない。新作のディズニー映画のプレミアも良く行われ、出演する俳優がレッドカーペットを歩くイベントも良く行われている。 アカデミー賞が行われるドルビーシアターの斜め前にあり、ディズニーのクラッシック映画なども上映したり、ディズニー映画のプレミア賞も度々開催している。隣には、ディズニーカフェやディズニーストアもあり、ディズニーマニアには必見の映画館です。


ディズニー・スタジオ・ストア

エル・キャピタン・シアターの真横に位置するこのお店は、文字通りソーダなどのソフトドリンクや各種サンデー、パフェなどを数多くメニューに取りそろえたカフェとディズニーグッズが少々置いてあるお店がある。特に、ミッキーズ・マスターピースというサンデーはここの名物で、数人でシェアしても残るぐらいのボリュームだ。お値段は、30ドル。あなたも試してみては!


ウォルト・ディズニーのウォーク・オブ・フェイム(テレビ部門)

ウォルト・ディズニーさんは、 1960年の2月8日に テレビと映画の2つの部門でウォーク・オブ・フェイムの星形を入れている。これはテレビ部門のウォーク・オブ・フェイム。


ウォルト・ディズニーのウォーク・オブ・フェイム(映画部門)


ミッキー・マウスのウォーク・オブ・フェイム

ミッキー・マウスは、1978年の11月13日にハリウッド・ウォーク・オブ・フェイムの星形に名前が刻まれた。 男性のキャラクターではミッキーが初めて星を入れた。女性のキャラクターは白雪姫が初。


くまのプーさんのウォーク・オブ・フェイム


ティンカー・ベルのウォーク・オブ・フェイム


ドナルド・ダックのウォーク・オブ・フェイム


ディズニーランド50周年記念 のウォーク・オブ・フェイム


タム・オ・シャンター

1920年代から1930年代のウォルトの平日のランチはいつもここでした。このレストランの建物が、のちの『白雪姫』に出てくる7人の小人たちの家のモデルになったと言われています。店内にはウォルトのアニメーションアートや歴史的な写真が飾られています。リクエスト次第では、ウォルトのお気に入りの31番テーブルにあてがってくれます。

ウォルトはよく飲み物用のナプキンにスケッチしたり、彼が31番テーブルに刻んだいくつかの絵は今も残っています。ウォルトのお気に入りは1922バーガー(『世界ふしぎ発見』によると)だが、実際お店に行ってみるとそのようなものはメニューに載っていないし、店員に聞いても知らないようで、どうやら番組のために特別に作ってもらったようです。お店の店員さんによると、ウォルトはスパゲティ、チリビーンズのスープ、バーガーなどが好きだったようです。ある店員さんがウォルトの好きだったメニューにあげたToad In the Holeというメニューは、フィレミニヨン、マッシュルーム、オニオン、ギネスグレイビーソースが入ったヨークシャープディングだそうです。


スモーク・ハウス・レストラン

生前、やはりウォルトが良く訪れたレストラン。ここのプライムリブは最高です。店の人曰く、ウォルトの好きだったメニューは、ステーキ・シナトラというパスタだったそうです。ピーマン、エシャロット、ニンニク、マッシュルーム、トマト、赤ワインと一緒にソテーされたフィレ肉の乗ったリングイネのパスタです。


ミレニアム・ビルトモア・ホテル

かつて、このホテルのボールルームでアカデミー賞が数回行われ、ウォルトも奥さんのリリアンとよく出席していた。『白雪姫』でオスカーを受賞した時に、シャーリー・テンプルからオスカー像を渡された写真などがホテル内の廊下の壁に飾られている。


ウォルトの乗馬場


ロサンゼルスの駅

ウォルトが1923年の夏、カンザスからハリウッドに住むロバートおじさんを頼って、汽車(サンタフェ鉄道)でたどり着いた駅。


チャーリー・チャップリン・スタジオ

ウォルトが1923年にハリウッドに上京して、憧れのチャップリンのスタジオを訪れている。


ハリウッドパーク競馬場跡地

1938年ハリウッド・ターフ・クラブによって開設された競馬場がかつてあり、取締役の一人にウォルト・ディズニーも名を連ねていた。


グッド・サマリタン病院

1931年、ウォルトが精神的に倒れて入院した病院。


ジョン・ラセターが卒業した高校